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災害拠点病院としての役割災害拠点病院としての役割

災害拠点病院の役割

DMAT(災害医療派遣チーム)を配備

災害拠点病院(一部を除く。)は、 地震などの自然災害や大規模交通事故等の災害現場に迅速に駆け付け、その場で救急医療を行う災害派遣医療チーム(DMAT)を配備しており、 その効率的な運用のために、 国の「日本DMAT活動要領」や「長崎県DMATう災害派遣医療チーム(DMAT)を配備しており、 その効率的な運用のために、 国の「日本DMAT活動要領」や「長崎県DMATう災害派遣医療チーム(DMAT)を配備しており、 その効率的な運用のために、 国の「日本DMAT活動要領」や「長崎県DMAT営要綱」に基づき、 平成21年3月に長崎DMATを設立しました。
長崎DMATは、 1チームにつき、 医師1名、 看護師2名、 調整担当1名の計4名の隊員を基本として構成されています。

長崎県上五島病院では地域災害医療センターとしての役割を持つとともに、災害の急性期に活動できる医療チームDMATDisaster Medical Assistance Team)を配備しています。

DMAT(災害医療派遣チーム)

災害拠点病院及び長崎DMAT指定病院

長崎DMAT派遣に協力する意思をもつ病院を長崎DMAT指定病院といいます。 本県は、 13病院を指定しています。

(平成24年12月現在)

圏域 名称 災害拠点病院 長崎DMATM
指定病院
長崎DMAT
チーム数
長崎 長崎大学病院 3
長崎私立市民病院 2
長崎原爆病院 1
済生会長崎病院 1
佐世保県北 佐世保市立総合病院 1
北松中央病院 1
長崎労災病院 1
県央 長崎医療センター 3
健康保険諫早総合病院 1
県南 長崎県島原病院 2
五島 長崎県五島中央病院 1
上五島 長崎県上五島病院 1
壱岐 壱岐市民病院 -
対馬 長崎県津島病院 1
合計 12 12 19

長崎地域災害医療センター

災害発生
下矢印
入院患者の安全確認/被災状況の確認

負傷者への応急処置や、専門医療が必要な患者の受け入れ先の確保などの手配。
病院施設等の被災状況の確認。

下矢印
院内災害対策本部の設置

害の発生後、被災状況を確認し、院内災害対策本部を設置します。
自院の医療昨日の維持や医療救護等の活動内容について検討を行い、必要な職員等を招集します。
長崎県医療保険班への被災状況等の報告、要請、受け入れ

長崎DMATの活動内容

  1. 災害現場における医療情報の収集及び伝達
  2. 災害現場におけるトリアージ、 救命処置、搬送支援
  3. 被災地内の病院におけるトリアージ、診療支援
  4. 広域医療搬送拠点におけるトリアージ、救命処置、 搬送支援
  5. その他災害現場における救命活動に必要な措謹

東日本大震災への医療救護支援派遣について

2011年4月17日から25日まで、長崎県からの派遣要請で、医師3名、看護師3名、理学療法士1名、事務員1名の計8名で宮城県本吉郡南三陸町へ医療救護支援に行ってきました。長崎空港を飛び立ち、羽田空港を経由し山形県の庄内空港に降り立ちました。初日は移動に12時間かかり、岩手県一関市に一泊した後に現地入りしました。

南三陸町は震災による津波の被害が大きかった地域のひとつで、現地に向かう数km手前の山道の時点から倒壊した家屋や流されてきた乗用車が目に入るようになり、海岸付近の市街地は震災直後に報道された映像と殆ど変らない状態で津波の大きさをまざまざと見せつけられ言葉を失ってしまいました。南三陸町の復興本部は、海岸より少し高い位置にある、「南三陸町総合体育館(通称:ベイサイドアリーナ)」に置かれ、その周辺を役場の仮庁舎や自衛隊のキャンプが囲んでいる状態です。

私たちは、まずベイサイドアリーナ内の医療支援本部に向かい、全体ミーティングに参加しました。南三陸町はもともと地域の中核病院が志津川病院の一つのみで、被災後の医療現場の指揮は同病院の内科医師2人が中心となり、看護師などの病院スタッフが各避難所に入り、避難者の健康状態の把握及び責任者県外からの医療支援チームの間の調整を行っていました。震災から1カ月が経過し、ベイサイドアリーナまで電気が復旧し、駐車場に仮設診療所ができ、簡単な検査まで行える設備も整ったことから、支援の規模を縮小し、被災前の南三陸町の医療に段階的に戻していくというのが本部の方針でした。

上五島病院チームが引き継いだのは、細浦・荒砥(あらと)・平磯(ひらいそ)・袖浜という地域で平磯にある特別養護老人ホームに診療所を設置しました。本部から要請されたこととしては、現地の避難者に対して今後診療施設が縮小されることを周知徹底してもらうことと、仮設診療所が本格的に稼働するまでに高血圧などの慢性疾患で定期内服薬が必要な人たちの薬が途切れないようにすることでした。

最初は診療所で待っている状態であったのですが、担当地区には自宅避難者が多く、情報が行き渡りにくい状態であったため、理学療法士、事務員が周辺の民家を巡回し人数と内服薬の有無を調査してくれました。その情報を元に医師・看護師で薬剤を届ける作戦を展開、全戸とは行きませんでしたがほぼ網羅できました。自宅を訪問した際には、長崎から来たと聞くと皆驚かれ、たくさんの感謝の言葉を頂き、かえってこちらが恐縮してしまいました。
また、避難所にまだ電気が復旧しておらず夜間など1-2℃にまで気温が下がり、まだまだ寒さの厳しい中で、硬い床に毛布・敷物一枚敷いて寝ている状況であったため、マットを調達するなどの環境整備も行いました。理学療法士は、被災前まで介護保険を受けていて、被災後に途切れている人たちを調査し、杖などの必要物品を本部に報告してくれました。一言に医療支援といっても、診療だけでなくこのような幅広い活動もあるのだと改めて気付かされました。チーム内に多様な職種の人たちがいてくれたおかげで、これだけのことが出来たと思っております。少ない人員の中、これだけの人数の派遣を可能にして下さった、各部署の現場スタッフにこの場で御礼を申し上げます。

被災地の一日でも早い復興を願って。

(小児科 久野 高大)

上五島病院災害支援チームの活動報告

われわれは、平成23年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震に対する災害医療支援を2回行った。1回目は平成23年3月18日から26日までの9日間、Japan HeartというNGO団体を通じてのボランティアとして参加し、2回目は平成23年4月17日から25日までの9日間、長崎県の派遣要請を受けての活動であった。派遣先は偶然にも、2回とも宮城県本吉郡南三陸町であった。今回は1回目の災害医療支援を中心に報告する。

チームの構成メンバーは医師1名、事務員1名、看護師3名の計5名であり、現地ではこれにJapan Heart本部から派遣された医師、看護師が加わった。
支援活動の統括本部は志津川ベイサイドアリーナの中にある救護所であり、われわれは戸倉地区の医療支援を行うよう指令を受けた。戸倉地区は地震と津波で道路が寸断され、2~3時間かかる迂回路を使わないと移動できず、道路状況が不安定で迂回路が不通となる時間帯があり、その場合は完全に陸の孤島となった。
ライフラインは電気、水道、ガスは全てが遮断され、トイレ、風呂も使用不可であった。最初は通信も不安定で携帯電話も使えない状況であり、本部との連絡はメッセンジャーを使うしかなかった。

戸倉地区には6つの避難所があり、その中で一番大きな海洋青年の家を本部とし、われわれもそこで被災者とともに生活しながら医療支援を行った。ここには乳児から高齢者まで約200名が避難していた。周囲にはそれぞれ津の宮(約70名)、滝浜(約130名)、藤浜(約90名)、長清水(約120名)、寺浜(約113名)の5つの避難所があり、戸倉地区では当時約700名が避難所生活を送っていた。戸倉地区の医療の状況として、震災後1週間は海洋青年の家に看護師が2名、保健師が1名おり、計3名で救護所を守っていた。この間医療支援チームによる巡回診療が2回あったものの、定時薬を処方されていない患者も多数いた。
戸倉地区に重傷者はおらず、ここでの主な業務は慢性疾患を持った患者への定時内服薬の処方であった。

まず海洋青年の家に仮設診療所を立ち上げることからスタートし、周辺の避難所へ巡回診療も併行して行った。館内の看護師巡回も始め、館内にいた約200人の所在や健康状態を担当看護師が把握した。周辺の避難所は民宿、公民館、民家などであり、ガソリンが足りないため戸倉診療所を受診することができず、巡回診療は重要な活動となった。受診者数は3月20日46人(診療所11、巡回35)、3月21日115人(診療所25、巡回90)、3月22日83人(診療所48、巡回35)、3月23日77人(診療所26、巡回51)であった。(3月19日、3月24日は未集計)

急変患者の搬送はヘリを使用した。ヘリ搬送となった患者は2名で、脳梗塞疑いの80代男性と消化管出血の90代男性であった。戸倉地区の地図を作成し、各避難所の避難者数、注意すべき患者(喘息発作、人工肛門、特殊な疾患など)がどの避難所にいるかをチェック、マーキングし、情報を引き継いだ。

一言に災害医療といっても、そのフェーズによって活動内容は全く違ってくる。今回のチームの構成メンバーは主にDMAT隊員であったが、基本的に超急性期の医療に当たるDMATの知識はほとんど使い物にならなかった。われわれは復旧復興期といわれるフェーズで活動したわけだが、この時期の災害医療の知識は皆無で、もちろん経験もなく、事前の情報もほとんどなかったため、手探りの状態で活動したこととなる。活動内容は医療だけでなく、安全管理、情報管理、物品管理、衛生管理など多岐にわたり、ロジスティクスが重要な役割を担った。このロジスティクスの知識こそが、唯一DMATで学んで活かされたことであった。

振り返って思うことは、災害医療支援という特殊な現場ではあったが、実はわれわれは、ほとんどゼロから地域医療を構築する作業をしていたのではないかということである。貴重な経験をしたことに加え、現在、そして今後の地域医療、自分の在り方について考えさせられる良い機会を与えていただいたことに感謝する。

(市村 竜治・馬込 義信・下原 亜沙美・川上 広江・平山 亮子)

福島県災害派遣報告

1. 派遣期間 平成23年5月16日~5月23日
2. 派遣先 福島県(原発30km圏外)
3. 活動場所 郡山市総合体育館、県北保健福祉事務所
4. 目的 住民に対する安心、安全の確保
5. 所属チーム 福島県災害対策本部 被曝医療チーム
6. 活動内容 一般住民への放射線被曝スクリーニング検査および除染
避難住民に対する放射線被曝量の測定、除染、健康チェック等

長崎県放射線災害派遣による福島県での活動について報告します。
原発から30km圏外ということで、津波の被害等はよく分かりませんでしたが、福島空港から郡山までの道路はかなり凹凸があり、住宅にはブルーシートがかけられ、かなりの場所で陥没等があり、地震による被害も相当なものでした。
朝8時30分に福島県庁でのミーティングがあり、高速道路を1時間かけて郡山に向かい、10時~17時までスクリーニング検査をし、また福島県庁にもどり、19時からのミーティングにて、測定結果や問題点などの討論を行うという活動内容でした。
ミーティングには放医研を中心に、自衛隊や核物理G、そして各県(長崎、兵庫、横須賀市、滋賀、青森、北海道)からの派遣チームが参加し、行われました。9箇所のスクリーニング会場があったのですが、防護服の処分の仕方や、スクリーニング証明書の発行の仕方など、各会場で違いがあり、統一性が不十分のよう思われました
実際の活動内容は、スクリーニング会場の、室内外での空間線量の測定、一般住民や避難住民の体外被曝の測定、そしてペットや家具、衣類、車、山菜、野菜、土、様々なものの測定、スクリーニング証明書の発行、そして一番大変だったのが、住民からの質問や、悩みの相談に答えるということでした。

測定にはGMサーベイメーターを用い、13000cpm以上100000cpm未満で部分的な拭き取り除染を行い、100000cpm以上で全身除染を行うというものでした。今回の測定では、車のマフラーが15000cpm(触媒に放射性物質が付着)、タイヤが5000cpm程度ありましたが、住民は200cpm以下で、ほとんど空間線量と同じで、放射性物質の付着はありませんでした(靴以外)。その他のものでは、土が、高くて500~1000cpmありましたが、他は200cpm以下でした。20km圏内への、立ち入り者の防護服も400cpm以下でした。スクリーニングとは別に、会場周囲の測定も行ったのですが、隅や窪み、雨どいの下ではかなり高く40000cpmを超える場所もありました。チリなどと同じで放射性物質がたまったものと考えられました(個人線量計の警報音がなる位、10µSv/h以上)。
郡山(原発から西へ約58km)の空間線量(地面から1m)は約1.5µSv/hで、平常時の約0.05µSv/hから考えると、30倍となります。空間線量に照らし合わせた放射線量の年間積算線量は、下記のようになります。

現在  1.5x24時間x365日=13140 µSv (1)
平常時 0.05x24時間x365日=438 µSv (2)
(1) -(2)=12702 µSv (3)

8時間外出し、16時間は屋内に居たとすると、その分の低減係数は
1x8/24+0.4x16/24=0.6 (4)

受ける年間放射線量は
(2) x(4)=12702x0.6=7621µSv=7.6mSv となります。
この他にも呼吸による放射線量や、飲食物による放射線量を加えると軽く10mSvは超えると思われます(国が空気中の放射性物質のベクレル数や、水、農作物のベクレル数を発表すれば、簡単に求められるが、情報の入手が困難)。

現在、国は、原発の状況を緊急事態期とし、ICRPの定める100~20mSvの下限である20mSvを上限値としていますが、子供達は約2µSv/hあるような運動場で、砂の舞う時もクラブ活動を行っているようです(親からの相談もあった心配事、内部線量など)。今の状況では、ニュースなどで言われている子供達の年間線量を1mSvというのは到底無理ではありますが、運動場や、土壌のある所は、数cmでも土の除去を行って欲しいものです。実際、1000cpmある土を持ってきた人が、二度目に5cm下の土を持ってきたら、200cpm以下でした。

さらに場所によっては(溝や隅、吹き溜まり、雨どいの下など)10µSv/hを超える所もあるので、子供達はなるべく、そのような場所で遊んだり、さわったりしないよう注意喚起も必要と思われます(市民の過剰な反応を心配し言わないのでしょうか?)。
教科書では100mSvで癌の危険が0.5%上がるといわれています。しかし実際は、低線量被曝に対しての疫学的評価はでていないのではないでしょうか?スリーマイルでは人的被害はなかったようですし、チェルノブイリは信用のおけるデータの公表がされたか疑問という声をかなり聞きました。そのような中で、子供達にはなるべく少ない放射線量であってほしいと願うばかりです。
回、市民からの質問や悩みで多かったのは、やはり子供のことです。子供達の被曝についての危険性などは、私の知りうる限りの知識で説明しましたが、ついつい教科書的な説明になってしまい、はたして納得してくれたかは疑問です。
話は変わりますが、震災から現在までずっと活動している県は、長崎県だけだという事でした。県としては、被曝地ということもあって支援を惜しまないようでしたが、県職員の放射線技師は15名と少なく、3回目の人もいるようでした。企業団からの応援は2名のみでしたので、もう少し多くの参加を望んでるようでした。今回の派遣により、被曝の現状を知るとともに、多くの知識も得ることができました、ありがとうございました。

(診療放射線技師 近藤和久)